『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』を読んで
作成日:2018.08.12
タグ: 雑記
はじめに
これは、ふろむださん(@fromdusktildawn)の『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』(リンク先ではじめの5章が読める)を読んで思いついたことを書いた文章である。
目次
「錯覚負債」
本の中では、認知バイアスによって引き起こされる自分にとって都合の良い誤解を「錯覚資産」と呼んでいた。
その逆である自分にとって都合の悪い誤解についても言及はされていたが、名前はついていなかった。
「錯覚資産」と対比させてこれを「錯覚負債」と呼びたい。
「錯覚負債」を負ってしまったら、錯覚が及んでいない環境に移るか、忘れられるまでおとなしくしているしかないだろう。
「ローカルな錯覚資産」
「錯覚資産」の大きさを決定づける要素には錯覚の効果を受ける人の数がある。
しかし肩書きなど誰に対しても錯覚を起こすものだけでなく、閉じた環境にいる場合など一部の人にだけ錯覚を起こすものもある。
後者のようなものを「ローカルな錯覚資産」と呼ぶことにする。
これの極端なバージョンとしては上司のご機嫌取りが挙げられるだろう。
「ローカルな錯覚資産」はその環境外では通用しないので、その資産が使えるうちにより汎用的な「錯覚資産」または実力に換える必要がある。
学校
「ローカルな錯覚資産」が生み出される環境の例として学校が挙げられる。
例えば成績が優秀であると先生や同級生から高く評価されがちである。
また、進学や転学をするとそのような評価はほとんど持ち越されない。
この「ローカルな錯覚資産」は意外と大きい。
小さなミスならほとんど咎められなくなる上、チームでの失敗においてもその責任が別の人、特に「錯覚負債」を負った人への転嫁が起こり得る。
これによって学校での過ごしやすさが格段に変わってくる。
しかしこれは自らの実力を見誤らせるという点であまり教育的であるとは言えない。
「ローカルな錯覚資産」を使っているという自覚があればそれほど問題ではないだろうが、ほとんどの場合は自らも錯覚しているだろう。
そうして自惚れたまま外の世界に出るとショックを受ける。
学校での振る舞いの一つの解は、成績が優秀かつそれによって生じる「ローカルな錯覚資産」を自覚しつつ活用するというものだと思う。
しかし後者が自然にできる人はほとんどいないだろう。
そのようなことから、学校という閉鎖的な環境においては「ローカルな錯覚資産」は有害ともいえる。
おわりに(本の感想)
『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』は錯覚の使い方を分かりやすく説明している本であるが、それと同時に読者に対して覚悟を決めさせる本でもある。
いつどこで錯覚を活用するか。どこまで「錯覚資産」という虚勢で押していくか。自分の騙しているのではないかという気持ちとどう折り合いをつけていくか。
覚悟を決め、それを上手く運用するバランス感覚が問われている。
そのように感じた。
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